昭和50年03月18日 朝の御理解



 御理解 第52節
  「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事が出来て来ても、少しも驚く事はならぬぞ。」

 いかに驚く事はならんぞと言われても、驚かずにはおられないそう言う事態があります。それはどう言う所から驚かなければならないかと云うと、神様を信じておるとか信じていないと言う事ではない。例えば此処にお参りをなさる皆さんの場合なんか神様を信じていない方はいないと思う。此処で二三年でも信心の稽古をなさっておる、ましてや五年十年二十年と信心を続けておられる方は神様を信じておられない筈はない。
 信じておる。信じておるけれどもいざと言う時に驚く。驚いてはならんと教えておられる、驚かんで済む信心を身に付けなければならない。唯くそ度胸と言った様なものではない。勿論神様を信じていなければ生活出来ない。昨日テレビでなにかコマーシャルでやってる何か、宣伝文句の中にあったのですけれども、大自然は素晴らしい調和を保つと言う様な意味の事を言っておられたですね。是は動物でも植物の上にでももう、素晴らしいバランスの取れた、働きが大自然の中には有ると言う事です。
 そう言う事は例えば信心がなかっても、少しなら勉強した人ならば、誰でも知っておる。大自然の中にはそういう言うならば、素晴らしいバランスのまあ神様はいうなら、自然は考えておられるとしか思えない働きがある訳であります。天地の中に。例を言えば切りがないけれども、それを皆んな誰でも知っておる。そういう言うならばバランスの取れたというか、間違いのないその様な働きの中に。
 私共が日々生活をさせて頂いておる。それを私はお道の信心をさせて頂く立場で、日々刻々その事を実感出切れる信心を頂かなければいけんのです。唯拝みよります、参りよります、神様を参りよる時にはおかげを下さる。あの時にああ言う信心をしてああいうおかげを受けた。いかにおかげを受けても受けてもね、成程神様を信じる力は段々付いて来ましょうけれども、それだけでは驚かんで済むと言う様な事は出来ない。
 所謂大調和です。大調和を保っておる大自然、それを教祖様は天地金乃神と言われる。ね。ですからその天地金乃神様の、そう言う大調和心と言う物はです、例えば虫けら一杯、小さい草木一本の上にでもそういう働きを下さるというのですから、増してや人間万物の霊長と言われ、また神の言わば愛し子である、可愛い氏子である人間の上に、そういう働きがあっていない筈がない。
 例えばあの渡り鳥なんか海を渡って来ますよね。とてもとても例えば日本海なら日本海を渡って来るその鳥、渡り鳥がですよとてもその長い時間をです、飛び続けると言う事は出来ない。けれども是はもう絶対なものだと、もう翼を休めなければならないと言う所には必ず遊木があるそうです。木が流れて来ておる。ね。いうなら大自然はそう言うもう微に入り細に渡っての、唯木が浮かんでおる唯ここに流されて来ておる。ね、
 けれどもあちらから鳥が飛んで来ておるから此の辺に一つ浮かしておこうか、そういう働きがある訳なんです。ね。もうそれはもう本当に微に入り細に渡っての増してや人間の、言わば幸福の種の神様の願いというか、ね、お心を使うて下さっておる、その心と言う物は本当に有りがたい勿体無いの、日々で有らなければならない様にして下さってあるのですけれども、そういう自然のバランス人間が壊して行きよると言う様な意味の事をテレビで云いよった。全くその通りだと私も思うた。
 自分達の言わば生きて行く生活の上に自分で、自分で行かれない様な生き方を昨日合楽会でしたが、椛目の宮崎さんも夫婦で参加しておられました。ある人の話をしておられましたが、もうそれこそ人格、もう本当に立派な人格者で沢山の人から、まあ尊敬を受けられたかた。が、子供さんがおられなかった。それでもうご主人も亡くなられて、自分一人になられて、充分年も取られて所謂おばあさん。
 所が最近何も出来とらん。そこで何か遠い親戚の方を養子に、養女に貰われた所が、もうこの人がろくな人じゃないらしい。全然婆さんを見なさらん。あの人が不幸せになんなさる、兎に角修養とか人間が出来ておりなさる、例えば働き出しなさった、儲けだしなさった位な事で人間の幸せが頂けれると言う事は絶対無いという印ですねというて、私の話を聞いてから言うた事でした。ね。いうなら自分で、言うならば自然のそういう恩恵と言う物を押しやって、自分で例えば作りだそうとした。
 自分のいうなら、例えば自分の事ではとってもそりゃ立派な方じゃったばってん、やっぱ見掛けだけじゃったばのち。そりゃ見掛けだけではあげな事は出来ん、心からやっぱりそういう親切な、まあいうならば、沢山の方方尊敬を受けるという内容を、やっぱり持っておられた。私は思うです。けれども信心と言う事とは又別なんです。神様の働きを大事にすると言う事が信心なんです。ね。
 だから信用とか、唯普通の道徳的な生き方が、いかに素晴らしく出来ておってもです、そういう不幸せな、まあ晩年に死に水をとって貰えない様な人が幾らもあると言う事なのです。昨日は東京の真ん中に住んでおる一人暮らしのお婆さんが、十七億円ですか財産も残して、まあーそれこそお茶も飲まずに水飲んで、そのー暮らしよんなさったという、亡くなられた話を以前しておられました。新聞に載ったそうですね。
 本当に私はあの、本当にどうでんこうでん信心させて頂いておかげを頂かにゃいかんよと繰り返し言うた事でした。そこで信心を唯拝んでおります、参っておりますと言う事ではなくて、例えばどの様な事が起こっても少しも驚かんですむ様な信心を身に付けておかなければならないと言う事です。そして自分自身でです、はあこういう時に腹が立たん、ちょっと有難いこっちゃある。
 こう言う事が起こったので驚かんで済むちゃ有り難い事でもある。はあ是があの世にも持って行けれるのだな、此の世にも残しておけれるのだなあと言う、私は確信に満ちた、しかも死後の事も例えばあの世にも持って行けれる者とはこう言う物という確信も付いて来る。そういう信心をなさにゃいけない。ね。普通ならこう云う時に腹を立てなければおられない。こういう時には普通驚くのが本当なこつ。ね。この頃光橋先生が言いよなさった。そん時それこそビックリする様な事が起こった。
 所がおかげになりますがち言うた所が、婆しゃまがえらい腹かきなさった。あんたも自分方息子があんたげん息子がそげな目にあうておるとに、どげん考えとるね。安心の度合いが違う訳です。お婆さんと光橋先生は。ね。どうしてそう言う事が言えるかというとね、神様の働きを信じるからだけじゃーないです。日々光橋先生が言っておられます様に、ね、言うなら別に沢山の収入がある訳でも何でもない。
 言うならば大体まぁああいう大きなお商売をしておられた沢山の財産家のお家だったですけれども、最近はそう言う訳にはいけない。ね。けれども必要な時には必要なだけです神様がお金なら、お金のお繰り合わせを頂く事だけが、日々恐れ入ってしまうと言っておられます。ね。いやそれがたまにはそれがなら頂けない事もあるけれどもそういう時に、はあここが間違うておったという受け方でおかげを受けておられる。そして神様の一部一厘間違いのない働きと言う物をです、日々感じておられる。
 そういう間違いのない働きの中に起きて来る事だから、是は驚く事は要らん、心配する事は要らんと解るのです。ね。神様を信じておるというのだけではないです。もう日々がです、だからそういう信心をしておきなさいというのです。本当に、例えば金銭の上にです万事万端の上に、ご都合送り合わせを頂いておる。ね。そういう間違いのない働き、ああきつなった疲れたと言う時にはそれこそ其処には、流木が流れて来ておる様に、神様のお働きちゃ恐れ入ってしまうという生活をしておる。
 私は合楽でね身に付ける信心というたら是より他はないと思うです。ね。そういう働きの中に起きて来る、様々な腹の立つ事悲しい事。又は目の前が真っ暗になる様な普通で言うなら事だけれども、そう言う時に真っ黒になる事は要らん、悲しむ事は要らん腹を立てる事は要らんという。それは神様を信じるおかげを受けて、神様を信じておるからと、だけではいけん。もう日々が刻々です。
 神様の働きの間違いのなさと言う物を、良しにつけ、悪しきに付けてです、ね、感じ取って行けれる生き方を身に付ける事です。ましてやお取次ぎを頂いての日々であるのですから。夕べ皆さん一人一人、前の総会の本当におかげを受けた、お話を発表しておられましたが、中に安東勇次君の班の人がもう大変感銘したと。安東さん所の息子さんのあれだけの信心を頂いておられるとは思われなかった。
 はあ素晴らしい事を言いよった。
 どげな素晴らしい事を言いよったですかというたら、兎に角お取次ぎを頂いて、日日起きて来る事はもう良い事悪い事、皆んな良い事と言う事を体験から感じさせて頂いた、此処を頂いたら間違いないねと言う様なお話じゃったです。良い事の時にはおかげと思う。自分の思いの反対の事になったら、悪い事であったりすると本当に信心しておるとにこう言う事が起こって来る、それではそれが信じれれると言う事。本当にもう神様のね働きの間違いのない働きというか、そういう働きの中に起こっておる事だからと、
 佐田のおばちゃんが昨日神戸に行かれた。お許しを頂いて丁度あちらに、加西にしさんが見えておったから、そちらの共励会においでられるなら、そう言う連れが有る時がいい、こげなお繰り合わせはなかと言うんで、所がどっこいどこ行っても切符がない。新幹線のそれであのうそのう、駅に行かれた所が、もう無いと言われたけれどもね、ちょっと待って下さいと言うてからはあ、一枚あったというてから出して下さったと。ね。
 それだけでです、例えば今度お婆ちゃんが行かれて帰って来られる迄こういう間違いのない働きの中に有っておる事だから、末田さん達ご夫婦ね、安心しておりなさると思うです。ね。そしてよしならどう言う事が例えば起こってもです、そういう間違いのない働きの中に行っておられるのだからという私は驚かんですむ安心があると思うのです。ね。そういう働きを日々です、まあ細かに言えば刻々です、ね。
 本当に神様の働きちゃ恐れ入るて。今日はどういうもんかそのお参りをして来るとにエプロンを持って来ておったら丁度エプロンをはめなならん、ごたる御用が教会であった。光橋先生のお側で先日の話の中の様に。ね。そういうおかげの中にいつうもおかげを頂いておるのですから、よしそこにどう言う様な事が起こってもです、おかげですが心配せんでよかでんですがと言えれる訳なんです。いかに日頃のね言うならば私がそこん所を、天地が奏でてくれるリズムに乗った生き方をせよとこう言うのはそこなんです。
 そこでです、そういう生き方は何処から生まれて来るかというとですね、大自然が何時もです、もうそれは植物小動物の上にまでです、そういうバランスのとれたおかげを下さってあるのですから、ましてや人間万物の霊長と言われるかわいいまた氏子とも言われる人間の上にそういう働きがあっていないはずがない。それを頂き留め切らんのは、こちらの信心が粗雑である。あまりに目が粗いからである。そういう大調和心にです私共の調和の心と言う物がお道では和賀心と言うんです。
 一切を和賀心で受けて行くと言う事は和らぎの心喜びの心。なるほどそれは調和じゃないけれども、そういう生き方にならせて頂こうと決心する事なんです。ね。最前の久保山さんじゃないけれども毎日お参りをされてもう、一番初めに願われるのは其の事です。今日もどうぞ成り行きを大事にさせて下さいとこういうのです。ね。その成り行きそのものを合掌する拝むと言うその心がね、言うならば一切と調和する心なんです。
 お風呂に入ったらお風呂を拝む。お便所に行ったらお便所を拝む。下駄を履くのに下駄を拝む。バスに乗る時ゃバスを拝む。是が調和心。拝む心なんです。家内を拝む主人を拝む。子供を拝むお客さんを拝む。だからこの拝む事の徹底した稽古から生まれて来るのが、いわば大調和心と調和する心なんです。だから難しい事じゃないです。もうそれを徹底して行く事です。そこからです、ね、これが天地が奏でて下さるリズムに乗ってるのだろうかと、思うような日々の中におかげを実感する事が出来るです。
 間違いないなあ、神様のお働きちゃ間違いがないなあ。はあお金がいくら要ると思いよったら、ちょっとそれは払わにゃならん前にお金が入ってきておる。はあ、此処にお茶が欲しいなと思いよると、羊羹がもう集まって来ておる、お茶が集まって来ておると言う様にです。もう確かにそうです、この世の中にはそういうおかげが、もう此処にもうあるんです。此処におかげはもうあるのです。ね。それを私共が側にあるのじゃなくて、遠うか所にあるか思うて、手元の所を大事にしない。
 手元の所を拝んで行かない。手元の所謂目の前にあるそれを拝んでいかない。ね。中々拝めん事もあるけれども、兎に角拝む事が本当だ和賀心で受けるのが本当だけれども、和賀心ではないならばお詫びをする心を持ってそれでも、心配になったり腹が立ったりするならお取次ぎを頂いてです、其処ん所の大自然とも所謂天地の親神様の心と一緒になれれる、大調和心と私共の調和の心とが一つになる是は拝むと言う事なんです。
 そういう信心を身に付けて行く所からです、此の様にも間違いの無い働きの中に起きて来る事だから、是もおかげであるともう即実感できるのです。ね。唯神様を信じております、もうあげん時にはあげんおかげも頂いた、こげな奇跡も受けた、だけじゃ幾ら積もり積もっても重なってもです、ね、そういう神様を頂いてもなんとはなしに心強いというだけであって、いざと言う時に、その心強いという信心が現われて来なかったらです、ね、まだ私共の信心の拝み方が足らん。
 一切が拝む事が足らんと心得させて頂いてです、自分の好きな物だけは拝むけれども、好かん物は拝まんと言った様なです、不都合な心ではなくて、愈々拝む心を作って行く重ねて行かねばいけません。だから信心は楽しいです。こげなもの拝めるもんかと思いよったのが拝めるのです。だから家庭が円満になるのです。親を拝み子を拝み、主人を拝み家内を拝みするのですから、円満にならない筈がないです。そういう大調和の心と一緒になる、心と言う物が家庭に育って来るのですから。
 家庭が繁盛しないはずです。そういう繁盛をたどらせて頂く、おかげでならなければ安心にはなりません。お徳にはなりません。どんなに人間が出来ちゃる。はあ頭が良い利口だ理詰めが良い金が残った。是だけでは昨日宮崎さんの話しの中から感じる様に、あの人が不幸せになるとは、それは不思議と。それけん結局あの人んとは、見掛けばっかりじゃったじゃろうと、昨日は言うておられます。いんにゃ私もそれは知っておるが見掛けだけじゃない、本当に心から親切な方であった。出来た方であった。
 けれどもねそれと是とは別だという事です。如何に天地の親神様の心が分かって心に沿う生き方を本気で勤めた人でなからなければ、人間の幸せは絶対に与えられない。億万の金を持っておってもだめ。神様を信じる力が段々強くなって来ると言う事とね、同時にです、神様が此の様にも間違いのない働きを下さる。そういう働きの中にです、起きて来る事であるから、大きな事が出来て来ても、少しも驚く事はならんぞと言われる、少しも驚く事の要らん、いうならば信心が出来ます。
 是をもちっと手前の方でいうならばです、日頃そういう信心が出来ていなくても、お取次ぎを頂いて行くと心が安らぐ。ね。言うならあの、試験なんかに受けて、落ち付いて勉強しておる充分の勉強があの発揮できる様に、落ち付いておかげを頂かなければならない。試験場に入ったら、答案用紙に向かったら金光様を少なくとも、十辺やら二十辺くらい唱えなければいけないよと子供たちでも言う。所がおかげに不思議に心が落ち着いて、試験を受ける事が出来ると、お礼参拝の時に皆さんがお届しております。
 だからそういう言わば、あのおかげというかね、心が平生になるという働きも、お取次ぎの働きの中に、頂く事が出来ますけれども、日々お取次ぎを頂いて、ね、今日も一分一厘神様の間違いのない、働きの中に実感出来れるおかげを頂く為に、愈々自分の周辺の全てを拝む。ね。四方拝と言う事は正月の事ですけれども、正月の事だけではない、自分の日々が四方拝でなからなければいけない。所謂元日の心でありである。自分の周囲の一切を拝むと言う心なのだ。
 是が神様の心にぴったりと合う心なんだ。そこからね言わば神様の奏でなさる、リズムがはっきり聞こえて来る様になる。そのリズムに乗った働きである。ね。そういう中に起きて来る、一切の事柄が損になる事もあろう、驚く様な事もあろう。けれどもそういう間違いのない働きの中に、起きて来る事であるからとそれをまた合掌して、受けて行く事が出切る日々であらなければいけない。
 そう言う有り方を身に付けて行かなければ出来ない。唯お願いをしておかげを頂くというだけではいけない。それを合楽では信心を頂くという。合楽で信心を頂くと言う事は、愈々ね大自然の働きと一つになる生き方をいよいよ身に付けて行く事を、それこそ微に入り細に渡って、あらゆる角度から日々皆さんに聞いて頂いておるのですから、ね、其処ん所を身に付けていかなければ合楽通いの値打ちはないと言う事になります。
   どうぞ。